俳句の『自由律俳句』とは

俳句の世界には、「五・七・五」という決まったリズムと、「季語」というルールがあります。しかし、その枠にとらわれずに、もっと自由に自分の心を表現したい、そんな思いから生まれたのが「自由律俳句」です。

「難しそう…」と感じるかもしれませんが、実は、自由律俳句は初心者の方でも気軽に楽しむことができます。この記事では、そんな自由律俳句の魅力について、一つひとつ分かりやすくご紹介していきます。


自由律俳句の読み方

「自由律俳句」は「じゆうりつ・はいく」と読みます。
これは「自由な律」を持つ俳句、つまり、伝統的な五・七・五の音数律にとらわれない俳句を意味しています。


自由律俳句とは

自由律俳句とは、伝統的な五・七・五の音数律や季語に縛られずに、作者が自由に言葉を選んで表現する俳句のことです。

通常の俳句が「決まった型」の中で美を追求するのに対し、自由律俳句は、心の動きや情景をそのままの言葉で、より率直に表現することを目的としています。
そのため、五・七・五の音数から外れたり、季語が入っていなかったりする作品が多く見られます。


自由律俳句の俳人

自由律俳句の歴史において、特に重要な役割を果たした人物を二人ご紹介します。

尾崎放哉(おざき ほうさい)
「咳をしても一人」という句で知られる放哉は、自由律俳句を代表する俳人です。
五・七・五のリズムからは外れていますが、結核を患い、孤独な境遇の中で生きた作者の心情が痛いほど伝わってきます。

種田山頭火(たねだ さんとうか)
「分け入っても分け入っても青い山」という句が有名です。
山頭火は、酒を愛し、人生に迷いながらも、自然の中で放浪の旅を続けました。彼の句は、旅の途中で出会った風景や、心の揺れを素直に、そして力強く描いています。

彼らは、五・七・五という型を越えることで、より深く、人間味あふれる表現を可能にしました。


自由律俳句の例

自由律俳句の代表的な作品をいくつか見てみましょう。

  • 咳をしても一人   尾崎放哉
    (せきをしてもひとり)
    季語もなく、五・七・五でもありません。しかし、作者の孤独感が短い言葉の中に凝縮されています。
  • 分け入っても分け入っても青い山   種田山頭火
    (わけいっても わけいっても あおいやま)
    「山」は季語ではありません。しかし、どこまで行っても同じような山並みが続く様子が、作者の終わりのない旅を思わせます。
  • まつすぐな道でさみしい   井泉水
    (まっすぐなみちで さみしい)
    五・七・五の型を破ることで、寂しさという感情がより強く伝わってきます。


自由律俳句の反対

自由律俳句の反対の言葉はありませんが、有季定型(ゆうき・ていけい)が反対の作品として意識されます。

有季(ゆうき)
季語を入れること。

定型(ていけい)
五・七・五の音数律を守ること。

多くの俳句大会や結社では、この「有季定型」で詠むことが基本とされています。自由律俳句は、この伝統的な形式からあえて離れることで、新しい表現を追求しているのです。

有季定型については、こちらでも記事にしています。




自由律俳句のメリット

俳句初心者の方にとって、自由律俳句には次のようなメリットがあります。

気軽に始められる
五・七・五の音数や季語を探すことに悩む必要がなく、心に浮かんだ言葉をそのまま書き留めることができます。

自分の感情を素直に表現できる
形式に縛られないので、喜び、悲しみ、怒りなど、自分の気持ちをよりストレートに表現できます。

新しい視点を発見できる
日常の風景や出来事を、既存のルールにとらわれず自由に切り取れるため、普段とは違う視点から物事を見つめ直すきっかけになります。


自由律俳句と破調の違い

「破調(はちょう)」とは、五・七・五の音数律を意図的に崩して詠む俳句のことを言います。
一見すると自由律俳句と同じように見えますが、両者には明確な違いがあります。

自由律俳句は、五・七・五というルール自体を意識せずに、自由に言葉を選んで作られます。
破調は、あくまでも五・七・五という基本のリズムを理解した上で、あえてそのリズムを崩すことで、より強い表現効果を狙うのが特徴です。

たとえば、「古池や蛙飛び込む水の音」という句を「古池や蛙飛び込む水面の音」と詠むような場合が破調にあたります。
破調は、作者が意図的に型を破ることで、読み手に強い印象を与えることを目的としています。



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