紫陽花やいづれの色を花盛 蘆風
満開の紫陽花を見に行く前の「わくわく感」を感じさせる。
大胆すぎる「言葉の省略」
この句の一番凄いところは、結びの「花盛(はなざかり)」という、たった一つの名詞の置き方。
この句を読んだとき、パッと頭に浮かぶのは「これから見に行く紫陽花は、いったいどの色をたくさん揃えて、今を見頃に迎えているのだろう!」という、出かける前の高揚感。
普通、この気持ちを言葉にしようとすると、
「どの色を揃えているか」
「どの色を見頃にしているか」
というように、後ろに動詞を続けたくなる。そうしないと、「読者にちゃんと伝わらないのではないか」と不安になるから。
しかし、そんなことは構わずに「花盛」と名詞をポンと一つ置いて終わらせる。それでいて、すべての意味を語らせてしまう。
どうすれば、こんな言葉選びができるのかと思った。
助詞のセンス
さらに唸らされたのが、中七と結びを繋ぐ助詞の「を」の選択。
ここをもし、「いづれの色『が』花盛」としていたらどうか。
「が」を使うと、主役は「どの色」という結果に向く。「(自然現象として)何色になって満開を迎えているのかな」という、どこか客観的で淡白な視線になるのではないか。
しかし、作者は「を」を選んでいる。
「いづれの色『を』花盛」とすることで、意識は「花盛り」という状態そのものに向くことになる。
それはまるで、「紫陽花自身が、たくさんの絵の具の中から『どの色を使って満開になろうかな?』と選んでいる」かのような、心地よいニュアンスを帯びる。
自然をただ観察するだけでなく、紫陽花という植物を親しく思い、その意思に寄り添うような、作者の温かく優しい眼差しさえ感じさせる。
「どの」ではなく「いづれ」がもたらす効果
現代の感覚だと、「どの色を」と言いたくなるところを、「いづれの色を」としている。
意味としてはほとんど同じに思えるが、この選択は天と地ほど違う。
「どの色を」
青・赤・紫といった、いくつかの決まった選択肢の中から選ぶ、少し限定的な印象になる。
「いづれの色を」
目の前に「色見本帳」をパッと広げたような、無限に広がるグラデーションを予感させる。
紫陽花は、咲き始めから終わりにかけて、驚くほど豊かにその色彩を変えていく花。
「いづれの」という言葉を使った瞬間、まだ見ぬ紫陽花畑に広がる、数え切れないほどの色彩の選択肢が読者の脳裏に一瞬で広がり、わくわく感を増幅させる。
この一句に込められた美意識の高さは、ただ凄いとしか言いようがない。
この俳句との不思議な出会い
この俳句と出会ったのは、何気なく見ていた朝5時台のNHKの番組。
岡山県の伝統工芸「撫川うちわ(なつかわうちわ)」の特集が流れており、そこには季節の美しい絵柄と、それに合わせた俳句が情緒豊かに書かれていた。
画面に映し出されたそのうちわに添えられていたのが、今回の俳句。
その「中七(真ん中の5文字)」の言葉が目に入った瞬間、心臓がどくんと大きく脈打つのが分かりました。あまりの素晴らしさに、私はテレビ画面の前で完全に釘付けになってしまった。
番組が終わったあと、私の頭の中はある思いで一杯になった。
「一体どんな人が、この俳句を作ったのか。この作者の他の作品も、句集も、全部読みたい!」
これほど見事な俳句を詠む人なのだから、歴史的に有名な俳人か、それに準ずる高名な人物だと思う。句集の1冊や2冊はあって、誰かしらがネットのどこかで取り上げているはず――。
そう確信してネット検索を始めた。すぐに作者は見つかるだろう、と。
しかし、検索窓にどれだけキーワードを打ち込んでも、まったくヒットしない。
その時の私の衝撃は、「うそだろ……?」のひと言に尽きる。
まさか、江戸時代あたりの地元の名もなき風流人が、サラリと詠んだだけの俳句なのか?とさえ思った。
その後、保存会に電話をして伺ったり、ネットの質問箱(知恵袋)で尋ねたりもしましたが、やはり作者は分からなかった。
どうしても諦めきれなかった私は、さらに調べを重ねた。
そしてついに、その瞬間が訪れた。
なんと、昭和8年(1933年)に改造社から発行された、山本三生
『俳諧歳時記夏』のなかに、ひっそりと、しかし力強く採録されているのを見つけ出したのだ。
この時の震えるような感動は、とても言葉では言い表せられない。
作者の名は、「蘆風(ろふう)」。
「蘆風」という俳号や、その一切の無駄のない詠み口から推測するに、おそらく松尾芭蕉の時代(江戸中期)周辺を生きた俳人だと思われる。
残念ながら、個人の句集までは見つけることはできなかった。
検索を終えたあと、深く、しみじみとした不思議な縁を感じている。
もし、撫川うちわにこの俳句が書かれていなければ。
一度文化として途絶えかけた撫川うちわが、現代に継承されていなければ。
あの日、テレビ番組に取り上げられていなければ。
そして、私がその時間に、そのテレビを見ていなければ――。
おそらく私は、この美しい作品を一生知ることもなく生涯を終えていたのだろうと思う。
何百年という気の遠くなるような時間を超えて、たった17音の作品が現代を生きる私の心を激しく揺さぶった事実に、芸術というものが持つ魅力を、改めて肌で感じた。
作者の蘆風と言葉を交わすことはできないけれど、この一句を通じて、時空を超えて、何か会話をしているような、そんな温かい感覚を覚えた。
どういう俳句を作りたいか、は人それぞれだと思うが、私はこのような俳句を作りたいと、心から思った。
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